このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年4月17日金曜日

テーマ別検証 ◉ その3


「誰」が暴動を行ったというのか?(後編)

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▶工藤夫妻の主張              

「朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者が、
暴動を行った」


▶工藤夫妻の主張はなぜおかしいか

  • 中国に拠点を持つ抗日テロ集団「義烈団」団員はたったの70人。日本潜入の能力もなし。
  • 日本に住む朝鮮人の多くを占めていた労働者には政治的意識なく組織もなし。留学生は徹底的な監視下にあった。
  • 震災前、日本本土での朝鮮独立派のテロは個人テロが1件と未遂が1件だけ。
  • 日本人社会主義者にはテロの能力も意図もなし。

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◉ 抗日テロ組織「義烈団」はたったの70人

前編では、工藤夫妻が、朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者が暴動を行った証拠としてあげている4つの論拠が、ことごとく論拠として成立していないことを明らかにした。後編では、工藤夫妻の主張を別の角度から検証する。“彼らが実行部隊として列挙している朝鮮人テロリスト集団や日本人社会主義者に、そもそも大規模な暴動やテロを東京で行う「能力」があったのか”という点である。検証の目的は、“工藤夫妻がいかに荒唐無稽な主張をしているか”を示すことである。

工藤美代子名で出された「旧版」、『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』の後書きでは、テロの主体について「いわずもがな、義烈団である」と断言していた。加藤康男名の「新版」『なかった』のあとがきではこの部分が消えてしまったが、本文の主張はほとんど変えていないので、工藤夫妻がテロ実行犯の筆頭に義烈団を想定しているのは変らないはずだ。

義烈団は、中国に根拠地をもつ朝鮮独立派のテロ組織である。1919年に結成され、震災の起きた23年時点までに中国や朝鮮で多くのテロ(要人暗殺や重要施設への爆弾攻撃)を行っている、最も戦闘的なテロ集団であった。しかしその彼らにも、東京で大規模なテロや暴動を起こす能力はなかった。なぜか。

第一に、人数が絶対的に足りない。義烈団は少数精鋭の組織である。結成時の人数は17人。特高資料が伝えるところでは、震災翌年の24年の段階でも70人程度(梶村秀樹「義烈団と金元鳳」『朝鮮近代の民衆運動』、明石書店93年)。そのほとんどは中国に分散して潜伏していた。

◉ 日本本土への潜入は極度に困難だった

第二に、日本本土に入ることの難しさである。中国から朝鮮に潜入してのテロですら、成功したものより失敗したものの方がはるかに多い。戦後すぐに、リーダーの金元鳳に聞き取って書かれた朴泰遠『金若山と義烈団』(皓星社)によれば、「日帝の(中朝)国境警戒がはなはだ厳しく、単身でも出入りがきわめて困難」だったからである。ましてや日本本土への潜入の困難は想像を超える。

義烈団が日本本土で行ったテロは、震災の翌年の「二重橋事件」だけである。これは、義烈団メンバー1人が皇居の二重橋に手製の爆弾二つを投げ込んだが不発に終わった(その場で取り押さえられた)―というものだ。このメンバーが日本潜入を同志たちに提起したとき、「とうてい不可能なことだ」と反対された(前掲書)ことで分かるとおり、この程度のことでさえ、東京に潜入して実行するのは難しかった。現にこのときも事前に情報がもれており、港には厳重な警戒網が敷かれていた。彼は石炭船の底に潜んでようやく日本にたどり着いたのである(『警視庁史 大正編』)。ちなみにこの爆弾攻撃の目的は、“関東大震災時の朝鮮人虐殺への報復”であり、“朝鮮支配の過酷さを日本の民衆に知らせること”だった。

こうした状況を見れば、義烈団が数百人規模の部隊を送り込んで東京を火の海にするなど、考えられないことだと分かるだろう(そんなことが可能な力量があれば、彼らはその力を朝鮮内部での蜂起に使ったに違いない)。そして、義烈団にすら無理なことは、当時の朝鮮人抗日組織には無理だろう。

ちなみに工藤夫妻は、“義烈団は上海臨時政府(独立派の亡命政府)の「裏の顔」だった”などと書いているが、これは大間違いである。義烈団はそもそも、三一独立運動後に上海臨時政府に集まる独立運動家たちが、諸外国に外交的に働きかけることで朝鮮独立を目指すという路線を選び始めたとき、これに反発して結成された組織だ。上海臨時政府とは、1930年代に至って大同団結が叫ばれるようになるまでは、一貫して距離をおいている。上海臨時政府幹部の金九などは「義烈団は、臨時政府を目の上のこぶのように忌み嫌っていた連中で、臨時政府の解消を猛烈に主張した」(金九『白凡逸志』東洋文庫)とまで書いているのである。

◉ 朝鮮人労働者は政治に無関心

中国に拠点をもつ義烈団にテロの能力がないのであれば、すでに日本に在留している朝鮮人労働者や留学生たちはどうか。

当時、日本に在留していた朝鮮人は、少なめな数字を出している内務省警保局の統計でも8万人以上にのぼるが、その多くは単純労働に従事する肉体労働者たちだった。そして、内務省警保局(特高警察トップ)が1925年1月にまとめた『最近ニ於ケル在留朝鮮人ノ情況』(萩野富士夫編『特高警察関係資料集成』12巻収録)では、彼らについて「無学文盲の者其の多数を占め政治上及び社会上の思想に全く無関心」としている。左傾化した留学生の働きかけによって労働運動の萌芽も生まれつつあったが、日本の労働組合が開催するメーデーに参加する者が留学生も含めてせいぜい30人程度。彼らのなかから数百人規模のテロ組織が現れるとは考えにくい。

では約3000人いた留学生はどうか。震災の前年、留学生によって初の社会運動団体「黒涛会」が結成されている。黒涛会はすぐに共産主義派と無政府主義派に分裂した。このうち共産主義派(北星会)について言えば、この時点ではほとんど研究サークルのレベルにすぎないものだった。その上、震災の3ヶ月前、23年5月には、彼らは大挙して朝鮮に帰郷している(日本に残ったのは7人だけ)。朝鮮本土での運動に転進したのである。彼らが中心となって朝鮮共産党が結成されるのは1925年のことだ。

◉ 日本在住の朝鮮人知識人は徹底的に監視されていた

もう一方の無政府主義派も、わずか十数人。「摂政宮(後の昭和天皇)暗殺のために爆弾入手計画を進めていた」として大逆罪に問われた朴烈はその中心だった。だがこちらも本格的な運動組織があったわけではなく、例の大逆罪でも、起訴されたのは朴烈と金子文子の二人だけだ。仮に二人の供述がすべて本当だとしても、逮捕時点で彼らは爆弾を入手していないし、とてもではないが工藤夫妻の主張するような、帝都を火の海にする数百人のテロリストの中核となりうるものではない。

そもそも、当時の朝鮮人知識人・学生への監視は徹底しており、日常的に尾行をつけられる「要視察朝鮮人」だけで268人(22年末)に上っている。朴烈にも2、3人の尾行が常についていた。268人を留学生3000人にあてはめれば、11人に1人である。めぼしい者はすべて監視されていたわけで、大規模な地下活動など不可能であった。これは日本人社会主義者への監視についても同じことが言える。当時の特高警察は、世界でも最高水準の監視体制を築いていると自認していた(荻野富士夫『特高警察』岩波新書、2012年)。

ちなみに、先述の内務省警保局文書は内部向けの秘密文書だが、言うまでもなく、「関東大震災時に朝鮮人暴動があった」などとは一言も書いていない。震災時の虐殺については、「朝鮮人に対する不祥事件」があったとだけ表現している。「朝鮮人に対する」である。念のため。

◉ 日本本土で朝鮮人抗日派のテロが頻発していたというウソ

また、工藤夫妻は、関東大震災前には日本本土で朝鮮人抗日組織によるテロやテロ未遂が頻発していたかのような印象を読者に与えようとしているが、それは事実ではない。震災以前に日本本土で行われた朝鮮独立思想に基づくテロは、たったの2件だけである。1件は、1920年の李垠(李王世子)暗殺未遂事件。工藤夫妻の本で引用されている震災前の記事のうち、爆弾が登場する2つ(p.121、p.122)は、この事件に関連するものだ。もう1件は21年の対日協力者・閔元植暗殺事件(刺殺)である。両方とも組織的なものではなく、個人によるテロであり、内容も要人に対するテロであって、工藤夫妻が空想しているような組織的で大規模な無差別テロではない。

震災後も、日本本土での朝鮮人による抗日テロは、24年の義烈団による二重橋事件(前述)、32年の桜田門事件(天皇の車列に手榴弾を投擲)を数えるのみである。1910年の韓国併合から1945年の日本の敗戦までの35年間に、日本本土で行われた朝鮮人抗日テロ(未遂含む)は、「考えただけ」だった朴烈の事件を加えたとしても、5件にすぎないのである。日本本土でテロを行うことがどれほど難しかったのか、これだけでもよく分かる。

◉ 震災前に潰滅していた日本共産党

日本人社会主義者はどうだろうか。当時、日本の反体制左翼の陣営もボル(ボルシェビキ、共産主義)派とアナ(アナキスト、無政府主義)派に分かれて対立していた。ボル派の中核となるのは、当時は結成そのものが違法であった共産党(第1次共産党)だが、震災の2ヶ月前、23年7月の摘発で、ほとんどの幹部が投獄され、残りはソ連に亡命した。ヒラの党員も、そのほとんどが逮捕された(立花隆『日本共産党の研究』によれば当時の党員数は約100人)。徹底的な壊滅である。つまり彼らの主だったメンバーは9月1日の時点で獄中におり、「数百人規模のテロリスト」を生み出す規模も能力もなかった。

地下組織のはずなのに、第1次共産党の幹部たちはほとんど、名の知れわたった知識人や昔からの有名な活動家で占められていた。つまり、警察には彼らの動向は筒抜けで、大規模な秘密行動など不可能な組織だったのである。

そもそも共産党がこの当時、大規模なテロや武装蜂起を意図すること自体がありえない。震災の前年、コミンテルンが共産党に与えた綱領(基本方針)草案は、平たく言えば、当面は地道に労働運動などをがんばれ、という内容であった(村田洋一編『コミンテルン資料集2』大月書店、1980年)。マルクス・レーニン主義者にとって綱領は絶対であり、思いつきでそれに反した行動をとることはありえない。地震が起きたからと言って突然、大規模なテロや武装蜂起を行うはずがないのだ。

◉ 人数も少なく組織も持たないアナキスト

一方のアナ派の人数規模は共産党よりさらに小さい。団結よりも自由な連帯を志向するその思想からも、激情から個人テロに走る者はいても、地下活動を担える統一した鉄の規律をもつ組織には縁遠かった。そうしたものをつくる意図もなかっただろう。彼らが抱く革命のビジョンは「アナルコ・サンジカリズム」と呼ばれるもので、選挙や武装闘争ではなく、労働者がゼネスト(すべての産業での一斉ストライキ)を行うことで資本主義を止めるというものだった。その実、アナキズムの影響下にある労働組合は小規模なものだった。

そもそも、この時期に共産主義者やアナキストとして活動していた人で、その後、政治家や文化人、実業家として活躍した著名人は少なくない。多くの人が回顧録の類を残している。だが当然ながら、その中には「関東大震災時に自分の組織はテロをやった」「自分は暴動に参加した」という証言はひとつもない。

日本近代史についてある程度の一般知識があれば、その頃の左翼運動について多くの人の名前が浮かぶだろう。アナキストの大杉栄や伊藤野枝、共産主義者の山川均、堺利彦、荒畑寒村、これに新人会や建設者同盟の学生たちとして宮崎龍介(柳原白蓮の夫)や麻生久、浅沼稲次郎(後の日本社会党書記長)などを加えてもいい。これらのうち、いったい誰が、夜陰に乗じて庶民の家の井戸に毒を入れたり、火を放ってまわったりしたというのか。具体的に考えればすぐにバカバカしい話だと思い至る。

◉近代史への無知に基づく妄想

工藤夫妻は、『なかった』p.338で、“ロシアや中国と日本を自在に行き来できるとは朝鮮人パルチザンの実力は並大抵ではない、社会主義者の支援があったに違いない”などとトンチンカンなことを書いている。だが義烈団の項で書いたように、実際には誰も“自在に行き来”などできなかった。日本人社会主義者にもそれを手引きする能力などなかった。そもそも、当時の日本人社会主義者に、朝鮮独立派と連帯して事を為そうという志向性が希薄だったことは、多くの研究を通じて指摘されている。

以上のように検証してみれば、震災に乗じて大規模なテロを行おうとした集団どころか、その「能力を持つ」集団さえ、朝鮮人や日本人社会主義者の中には存在しなかったことが分かる。朝鮮人の中にも日本人の中にも、「数百人規模のテロ部隊」を動員できる勢力など一つもなかった。結局、「関東大震災時に朝鮮人と社会主義者が暴動を起こした」という主張そのものが、朝鮮や日本の近代史、そして当時の社会主義運動、民族独立運動へのひどい無知の上に成り立っているのだ。完全に妄想である。

そもそも、9月1日に地震が発生したときに、それ以前からテロ・暴動を計画していた人々が急遽予定変更して混乱に乗じて各地でテロを行った―などという話をどうしてまともに信じられるのだろうか。火災が予想もつかないほどに拡大し、誰も彼もが逃げ惑っているときに、彼らはどうやって互いに連絡を取り、どうやって集まり、激変する状況に応じた新しい作戦を立て、指揮命令を伝達していたのか。当時でさえ、そんな話はばかばかしいと笑った人は大勢いたのに、90年後の今、それを真顔で主張し、それを本にして出す新聞社(産経新聞出版。工藤美代子による「旧版」の版元)があり、それを読んで信じる人々がいるとは、それこそ信じられない話である。