このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年2月25日水曜日

証拠史料編 ◉ その1

【「証拠史料」編―工藤夫妻の示す「証拠」史料を検証する】

誰も見ていない
「不逞の鮮人約二千人」

………… 要点 ………………………………………………………………

  • 震災直後に書かれた避難民の談話記事
  • “目撃”証言ではなく、伝聞に基づいて“認識”を語ったもの
  • 「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行」は軍司令官らが否定。目撃情報もなし

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工藤夫妻による引用(『なかった』p.42)

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一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を檀(ほしいまま)にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を倒したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである」
(大日本石鹸株式会社専務・細田勝一郎談『河北新報』大正十二年九月五日) 
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工藤夫妻は、『なかった』p.42~44にかけて、上の記事を含む、朝鮮人暴動に関連する三つの記事を引用したうえで、「こうした証言はあげれば際限がないほど多くを数える。だがこれに反し逆に日本人によって多数の「無実の朝鮮人」が虐殺されたのだと主張する説が長い間歴史観の主流を占めてきた」と書く。p.42では「無数の目撃談は幻を見たに過ぎないとでもいうのだろうか」とも書いているので、これらの記事が朝鮮人暴動を伝える目撃証言であり、これらの記事の存在がそのまま、朝鮮人暴動の実在の証拠と考えているようである。だが本当にそうだろうか。

はじめに」で書いたように、工藤夫妻は朝鮮人関連記事の引用の多くを、虐殺研究の基本文献である『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』に収録されている記事に依っているようだ。この記事もまた、『現代史資料6』に収録されているものだが、『現代史資料6』に収められているのは元の記事の一部にすぎない。記事の全文は、山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』(緑蔭書房、2004年)で確認することができる。長くなるが、以下にその全文を掲載するので、それを踏まえて、果たしてこの記事を「暴動の証拠」とする工藤夫妻の論が成り立つかどうか検証してみたい。

工藤夫妻が引用した部分を赤字にしてある。

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殆ど全滅の横浜/死傷約四十八万
看守が囚徒を指揮して二千の不逞鮮人と戦ふ
知事は負傷で起てず
救済の策も講ぜられない



横浜市の全滅は伝へられて居るが、通信交通共に杜絶して孤立の姿になつて居るので状況不明であつた処、4日午前9時50分の下り列車で3日午前に横浜港を立ち出で辛ふじて東京に入り、北海道の本社に向ふべく北行した大日本石鹸株式会社の専務細田勝一郎氏は、泥塗れとなつたばかりでなく、裂き破れた洋服姿で仙台駅の停車を利用し其の状況につき左の如く語つたが、連日の疲労と惨事の追想とに顔色憔悴を来たして居た。

一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は、何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが、大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨したのだが、それにしても各方面の情勢を知るにつとめ三日の朝に至つて東京に向つた。私の実見する限りにおいては横浜市の総人口五十万の内実に四十八万は全滅の姿となつたといつてよろしい。

大地震に伴ふ海嘯が襲来したやうに伝へられたが、この災害は全くない。かかる惨害は一にかかりて地震火災である。即ち第一回第二回の大震動で建築物が崩壊し同時に各所から火を失して猛火全市を包み一面焦熱地獄と化したので、死滅者が少なくとも十五万人以上と算することが出来る。されば二日に至りてはさしもの大都邑も茫漠たる焼野ケ原と変じ、凄愴言語に絶する。道路は各所とも五尺乃至八尺の陥没を来たしてゐるから、交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。

況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を檀(ほしいまま)にするは元より、婦女子二三十人宛(ずつ)を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を倒したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生残った市民の全部は天を仰いで餓死を待つばかりである。

海上方面は不明だが、これ亦(また)援助に上陸せぬのを見れば、大なる損害を蒙つたと想像される。斯くて市当局その他の生存者は知事に面談して善後策を講ずるべく県庁に至つたが庁舎は既に火災に罹り、知事は重傷を負ふて家族亦四散の有様にて如何ともすることが出来ない。大谷嘉兵衛翁亦同様の境遇に陥り、重要協議の途もなきに至つた。

渋沢子爵の別邸は矢張り灰燼に帰して在浜中の家族は僅(わずか)に亜鉛板二枚にて雨露を凌ぎ二日間の断食をしてゐた。総損害は元より不明だが七億円を下ることなかるべく回復の見込みの如きも到底覚束なしといふより外はない。横浜市の惨状を目にして東京市に入れば、損害の大なるは勿論だけれど、なほ救援の方法も幾分はつき、交通も相当に備はつて居る方面もあるから比較にならぬと思はれる。救援の何ものもない横浜市こそ空前の大悲惨事と云はねばならぬ。
(読みやすさを考慮して句読点を補った) 
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記事の全文を通読して分かることは、細田氏の談話は、彼が“目撃した”ものを語っているというよりは、横浜全体の状況についての彼の“状況認識”を語っているものであるということだ。細田氏自身の実体験は「断食のままで諸所を彷徨した」という程度にしか語られていない。語られている内容を見れば、その内容の多くが、伝聞や思い込みをもとにしたものであることは明らかだ。

そのため、明らかな事実誤認も含まれている。ひとつは「死滅者が少なくとも十五万以上」という部分である。関東大震災全体の死者・行方不明者数が10万5000人であるから、これは事実ではありえない。実際には、横浜の死者数は約2万6000人であった。

ひとつは、安河内麻吉・神奈川県知事が重傷を負い、一家が離散したという部分。これも誤りである。知事は震災時に横浜公園に避難した後に知事公舎に移動し、翌朝には久保山に避難して無事でいる家族と連絡をとっている。安河内知事はその後も、未曾有の災害に対処すべく奔走を続けているのである。

さらに、確かに横浜刑務所の開放は行なわれたが、それは朝鮮人と戦うことを目的としたものではなく、刑務所の建物が倒壊したために、法律に従って囚人の一時解放が行なわれたというのが実際である(吉河光貞『関東大震災の治安回顧』法務府審査局)。解放された囚人が市民とともに朝鮮人狩りを行ったという記録もあるが「大戦闘」の記録はない。

つまり、この見出しの中で明らかに正しいのは、「殆ど全滅の横浜」「救済の策も講ぜられない」の二つだけである。

見出しに掲げられている伝聞情報にこれだけ誤報が混じっているのに、「二千の不逞鮮人」という噂だけは無前提に事実だと、工藤夫妻は主張するのだろうか。

実際には、すでに第1部で紹介したように、神奈川警備隊を指揮した奥平中将が、「朝鮮人が強盗強姦を為し井戸に毒を投げ込み、放火その他各種の悪事をなせし」という噂は「ことごとく事実無根」であったと書き残している【→リンク】し、安河内知事もまた、9月4日の時点で「一人の現行犯ある鮮人を見出さざりし」「事実は隊伍を組みて来襲せしなどのこと皆無なり」(「神奈川県罹災状況」)と報告している【→リンク】。ほかにも、当時の横浜市長が「鮮人襲来の如き荒唐無稽な流言飛語」について書いている【→リンク】し、神奈川県警察幹部も「不逞鮮人の暴行」などの「流言飛語」について言及している【→リンク】。もちろん、朝鮮人暴徒をこの目で見たという住民の目撃証言もない。 

震災直後には、虚報・誤報が氾濫していたことは、すでに当サイトで繰り返し書いてきた。工藤夫妻が引用紹介している細田氏の談話記事も、震災直後の混乱した認識を示すものにすぎない。いかなる意味でも、これまでの常識を覆して“朝鮮人暴動”の実在を証明する“目撃証言”とは言えないだろう。そもそも、「これまでの常識」を作ってきた『現代史資料6』に掲載されている記事なのに、それをそのまま書き写すだけで、「これまでの常識」を覆す証拠になるわけがないのである。