このブログについて

このブログは、工藤美代子/加藤康男による「関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本を検証するために、

「民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923」が作成するものです。

初めてご覧になる方は、入門編「はじめに」からお読みください。

2015年4月18日土曜日

テーマ別検証編 ◉ その2

「誰」が暴動を行ったというのか?(前編)

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▶工藤夫妻の主張              

「朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者が、
暴動を行った」


▶工藤夫妻の主張はなぜおかしいか

  • 震災後に、震災を受けて起きた出来事を、時間をさかのぼって「震災時の暴動の証拠」に仕立てている。 
  • 出典元を示しながら、そこに全く書かれていないことを書いている。 
  • 結局、唯一の「証拠」は「朝鮮人を拷問したら自白した」という震災直後の新聞記事のみ。

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◉ 抗日テロ組織と社会主義者が暴動計画?

工藤夫妻は『なかった』で、震災直後の新聞記事を並べては「ほら見ろ、朝鮮人の暴動があったとここに書いてあるじゃないか。だからあったんだ」というだけのことを繰り返し主張しているわけだが、それではいったい、どんな朝鮮人が、どんな組織が暴動を行ったと考えているのだろうか。

それを明らかにしているのが『なかった』の最後に置かれた第7章なのだが、この章は、それまでの各章以上に読み進めるのが苦痛になる内容である。論理の混濁がひどいのだ。

工藤夫妻によれば、暴動の主体は、上海に置かれた独立派の亡命政府「上海臨時政府」と「地下水脈で通じていたテロ集団」(抗日テロ組織「義烈団」がその筆頭だとしている)であるという。もともと彼らは、10月に予定されていた摂政宮(後の昭和天皇)の結婚式当日に合わせた暴動を計画していたが、9月1日に予期せぬ大地震が起こったことから計画を変更。即座にこれに便乗して暴動を開始した――のだそうだ。そして、どうも記述があいまいではっきりしないのだが、ソ連や日本の社会主義者たちがそれを支援していたと言いたいようだ。「社会主義者との結託」という小見出しも立てられている。

さて、この主張を成立させるために工藤夫妻が提示している論拠は以下の4つである。①「朴烈事件」があったという事実、②中国に拠点を置く朝鮮人抗日テロ組織「義烈団」などの震災直後の動きを記した特高文書の存在、③『朝鮮民族独立運動秘史』の記述、④「朝鮮人暴動」を伝える震災直後の新聞記事。

最初に、①と②をそれぞれ取り上げよう。

◉ 朴烈事件が「朝鮮人暴動」の証拠になる論理が意味不明

①の朴烈事件とは、アナキストの朴烈と金子文子らが爆弾を入手すべく画策していたが、震災直後の9月3日に検挙され、取調べに対して爆弾入手計画を供述したという事件である。ちなみに、逮捕そのものは爆弾計画に対してなされたのではない。震災直後、「保護検束」の名目で朝鮮人や日本人社会主義者の検束が各地で行なわれたが、朴烈の検挙もそうしたものの一つだった。検束後の取り調べの中で計画が明らかになったのである。この計画に何らかの意味で参加していたといえるのは、朴烈・文子と金重漢の3人。彼らが爆弾を入手しようと義烈団の周辺の人物(ソウル在住)に接触したのは事実だが、結局、入手できずに終わった。念のために言っておけば、震災よりずっと前の話である。

さらにその計画は「現実性や具体性に欠けたものであった」(小松隆二・慶応大学教授、『現代史資料3 アナーキズム』みすず書房、1988年)というのが定説だ。天皇や大官たちを爆殺することを目的にしていたと「供述した」ことで、朴と金子は大逆罪で有罪判決を受ける(後に恩赦)が、この供述内容自体が取り調べのなかで誘導されて「でっち上げられた」ものと見る研究者が多い(「朴烈」「世界大百科事典」平凡社)。いずれにしろ彼らは、爆弾を入手しようと「考えた」だけで有罪とされたのである。

この事件をどう評価するかはともかく、これがどうして朝鮮人テログループが震災時に東京で暴動を「起こした」証拠になるのか、皆さんには理解できるだろうか。私にはさっぱり分からない。ここにあるのは、3人程度の活動家集団が、震災以前から爆弾を入手しようとしていたが、入手できないうちに9月3日に検束されたという事実だけである。

朴烈事件そのものはよく知られた事件である。裁判記録や当事者の回想の類も多く残っている。この事件を震災時の「朝鮮人暴動」の実在に結び付けたいのであれば、つまり、彼らの夢想が数人だけのものではなく、より大きなテロ計画の一環であったと主張したいのであれば、それを論証する必要があるが、工藤夫妻はそうした作業をまったく行っていない。そもそも工藤夫妻がそう主張したいのかどうかもよくわからない。どうも“天皇を爆殺したいと考えた朝鮮人が3人は存在した”事実自体が、関東大震災時の朝鮮人暴動を立証していると考えているような節もある。

ちなみに、関東大震災の2ヵ月後にまとめられた司法省の報告も、朴烈事件について「震災直後に検束を受けたるを以て震災後に於ける犯罪には直接の関係なきこと明なりとす」として、「朝鮮人暴動流言」との関係を否定している。

◉ 史料原文を次々に誤読する工藤夫妻 

次に②、中国に拠点を置く朝鮮人抗日テロ組織「義烈団」などの震災直後の動きを記した特高文書の存在だが、これも例によって『現代史資料6』に収録されている朝鮮総督府警務局文書の孫引きである。工藤夫妻はそこから、(ア)義烈団のリーダー、金元鳳が震災から9日後の9月9日、震災後の混乱を好機と考えて「部下を集めて天津から東京に向かわせたとの報告が上がっている」(『なかった』)、(イ)同じく義烈団が「保管していた爆弾50個を安東(注・韓国慶尚北道の日本海に近い都市〈工藤夫妻による注〉)に向け発送したという情報が警務局に届いていた」(同)、(ウ)さらに同じく義烈団が9月19日、決死隊員の選抜のための儀式などを行った―という情報を列記する。

だがここにはいくつもの原文の誤読が見られる。

まず、(ア)だが、『現代史資料6』に収録されている警務局資料には、金元鳳が「部下を集めて天津から東京に向かわせた」などとは書いていない。「部下を鮮内(朝鮮内部)に派送」するための「手配を定めた」(『現代史資料6』p.522)とあるだけである。東京ではなく、朝鮮、しかも「向かわせた」ではなく、「手配を定めた」のである。当時、義烈団にとっては、団員を朝鮮内部に派遣するだけでも困難を極めたのであり、ましてや団員を東京に自由に派遣するような力量はなかった。そのことは、本稿の「後編」で詳しく書く。

◉ “50本入りのタバコ大の爆弾”という原文を“爆弾50個”と読む

次に(イ)だが、「爆弾50個を安東(注・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に向け発送したという情報」というのは完全に原文の誤読、それも噴飯ものの誤読である。原文には「爆弾50個」など出てこない。「該爆弾は五拾本入の巻莨缶大のもの」とあるだけだ。現代語訳すると、「この爆弾は50本入りの巻きタバコ缶くらいの大きさ」となる。つまり、“巻きタバコ50本が入っている缶詰”くらいの大きさの爆弾が1個である。50個の爆弾ではない。さらに苦笑するしかないのが「安東(注・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)」という下りだ。「安東」に「韓国慶尚北道の日本海に近い都市」と注を添えたのは工藤夫妻だが、原文に登場するのは「安東県」であって韓国慶尚北道の安東ではない。安東県とは、現在の中国の都市、丹東市である。北朝鮮の新義州と鴨緑江を挟んで向き合う国境の都市であり、朝鮮領ではない。当時は日本が中国から租借し、「関東庁」として統治していた地域だ。義烈団は、朝鮮に入る玄関先にあたるこの都市にアジトをもっていた。そもそも、慶尚北道の安東も「日本海に近い都市」ではない。海からは40キロも離れている。東京湾から内奥に40キロ入った埼玉県大宮市を「太平洋に近い都市」と言うだろうか。おそらく、「日本海から船を出して日本に『50個の爆弾』を運ぼうとしたのだな」と読者に連想させたかったのかもしれないが、あまりに無理がある。

そもそも念のために言っておけば、原文も、朝鮮総督府の警務局が“そうした情報をキャッチした”というものであって、実際にそうしたことがあったかどうかは分かっていない。

いずれにしろ、震災を日本政府攻撃の好機と捉えた中国在留の朝鮮人抗日組織が震災後にテロを画策していた(かもしれない)という話である。繰り返すが、特高情報に記述されているのは“震災後”の動きである。まさか震災の報を受けて9月19日に中国で選抜された決死隊員が、9月1日の東京にタイムスリップしたとでもいうのであろうか。

 長くなった。③の検証に移ろう。

◉抗日組織各分派が摂政宮をテロの目標として準備していた?

 ③は、独立運動各派のテロ活動について言及した『朝鮮民族独立運動秘史』の記述である。工藤夫妻は、以下のように書いている。 
「ところで、こうした上海仮政府と地下水脈で通じていたテロ集団にも、路線をめぐる党派争いがあった。/その結果、集団はいくつかの分派に分裂しながら、個々にテロ計画を練って日本内地襲撃を狙っていたものと考えられる。だが、いずれの分派も目標日の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標としていた。ところが分派それぞれの事情から、資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた(『朝鮮民族独立運動秘史』)」  (『なかった』p.336) 
「上海仮政府」とは、上海に拠点をおいた朝鮮独立派の「上海臨時政府」を指す。さて、上の記述によれば、工藤夫妻は、抗日テロ集団各派の「ご成婚式」襲撃計画の準備状況について、『朝鮮民族独立運動秘史』という本に依拠して書いているらしい。この書名は、『なかった』の巻末資料一覧にも掲載されている。そこには「坪江豊吉『朝鮮民族独立運動秘史』巌南書店、1954年」と書かれている。

そもそもこの書名、著者名からして間違っている。まず、著者名は坪江豊吉ではなく坪江汕二。豊吉は確かに坪江氏の本名だが、この本の著者名としては汕二を使っている。さらに、版元も発行年も間違っている。最初に出たのが日刊労働通信社で1959年、再刊されたのは巌南堂書店で1966年だ。

◉ 出典を示しながら、実際にはそこに書かれていないことを主張

『朝鮮民族独立運動秘史』(以下、『秘史』)は、朝鮮総督府で警務官僚を務めた坪江氏が戦後に書いたもので、治安官僚が蓄積した資料に基づいて、韓国併合後の朝鮮独立運動の歴史をまとめたものだ。日本の治安官僚の視点から書かれているとはいえ、朝鮮独立運動の重要な資料であることは間違いない。

さて工藤夫妻は、上記の文章で、この本を出典元として、「資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた」などと具体的に、東京暴動に向かって準備を進めるテロ組織各派の動向を描き出している。だが本当にそんなことが『秘史』に書いてあるのだろうか。事実ならそれ自体が驚くべきことである。

だが実際には、『秘史』にはそんなことは全く書いていない。関東大震災に言及しているのは一箇所だけで、その内容は「関東大震災の報道は、とくにかれら(中国の朝鮮人抗日組織各派)に誇大に伝えられ、これを契機として日本の国力の後退を夢想し、運動戦線の統一と強化をはかろうとする気運が強まっていった」という一文ですべてである。工藤夫妻が書いている「(分派)個々にテロ計画を練って日本内地襲撃を狙っていた」「いずれの分派も目標日の第一は摂政宮」「ところが分派それぞれの事情から、資金や実行部隊の確保、逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた」などに対応する記述は、『秘史』のほかの箇所にも全く存在しない。

工藤夫妻が書いている内容で、『秘史』の内容と合致しているとかろうじて言えるのは、中国の朝鮮人抗日組織にも「路線をめぐる党派争いがあった」という部分だけである。確かに中国に拠点を持つ朝鮮人抗日組織は、さまざまな分派に分かれていた。だがその分派各派がそれぞれに来日して東京に結集し、テロを準備したなどという記述は、『秘史』には存在しない。夫妻は、参照先として『秘史』を明示しながら、そこに全く書かれていないことを無根拠に書き連ねているのだ。

『なかった』において、工藤夫妻は、“朝鮮人テロ集団はいくつかの分派に分かれて東京でテロを行った”と繰り返し断言している。その唯一の根拠が示されているのが、『秘史』にそう書いてある、と主張するこの部分の記述なのである。

こうなると、残る「証拠」は④、例によって震災直後、混乱期の記事だけということになる。だが、この時期の新聞が伝える「朝鮮人暴動」記事が流言を伝えたものにすぎないことについては、すでに「証拠史料編」などで繰り返し説明したとおりである。

◉ 実在の根拠を一つも示せない「朝鮮人暴動」は工藤夫妻の空想 

以上、「暴動を行ったのは朝鮮人抗日テロリストと日本人社会主義者だ」という工藤夫妻の主張がまったく成立しないことを、彼らが挙げている根拠の検証を通じて明らかにしてきた。4つの論拠のすべてが、そもそも根拠になっていないのだ。要するに、「朝鮮人暴動」をめぐるあれこれの記述は、全て工藤夫妻の空想にすぎないと考えるほかない。

さて、続く「後編」(近日公開)ではこの問題を違う角度から検証してみる。すなわち、工藤夫妻がテロの主体として挙げている諸集団に、果たしてその「能力」があったのか、という視点である。前編ではふれなかった日本人社会主義者の問題もそちらで扱うことになる。それを通じて、工藤夫妻の主張がどれほど荒唐無稽なのかが分かるだろう。